明治44年、白秋は26歳のとき第二詩集「思ひ出」を刊行します。上田敏が激賞し明治文豪10傑選の詩の部門で最高得点を獲得、一躍明治詩壇の寵児となります。

ちょうどその時、隣家の人妻松下俊子さんが夫から虐待されていることへの同情から不幸な恋愛事件となり姦通罪で訴えられ市ヶ谷の未決監に二週間拘留されます。示談が成立して無罪となります。しかし、若くして名声を博した白秋への世間の風当たりは強く、轟々たる非難を浴びます。

白秋は死を決意して木更津に渡りますが、死にきれず三浦三崎へ再度渡ります。

「どんなに突きつめても死ねなかった。死ぬにはあまりにも空が温かく日光があまりにも又眩しかった」と述懐しています。その時の作品が「城ヶ島の雨」なのです。

雨はふるふる 城ヶ島の磯に

城ヶ島の雨が傷心の私を濡らしている。

利休鼠の 雨がふる

それは微かに緑色を帯びた鼠色(利休鼠)の雨。

雨は真珠か 夜明けの霧か

この雨は傷ついた心を癒してくれる慈雨なのか、やがて晴れる霧なのか。

それともわたしの 忍び泣き

耐え忍ぶしかない涙なのだろうか。

舟はゆくゆく 通り矢のはなを

今は、苦しみのただ中にいるがこの苦悩、通り矢の急流のように早く過ぎ去ってほしいものだ。

(注)白秋が三崎にいたころ、大きな離れ岩があって岸との間の潮の流れが矢のように速いことから通り矢という地名があった。今は埋め立てられバス停にその名を残すのみ。

濡れて帆上げた ぬしの舟

今、私はびしょ濡れの帆掛け船のようなものだ。

ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる

さあ、濡れた帆を降ろし(過去を忘れ)、舟は櫓で漕ごう、櫓は唄で調子をとるのだ。

唄は(詩・歌)船頭さん(白秋)の心意気…

必ず詩歌の道で立ち直ってみせるぞと意気込んではみるものの、現実に目を落とすと…

日はうす曇る 帆がかすむ

…と心が萎えてくるのだった。

三浦三崎に逃れてきたその時の心境がそのまま象徴的に表現されているのです。