それは昭和24年の秋、私が福岡高校の2年生、51年前のことでした。

ピアノを弾きながら五線紙に音符を書き込んでおられる先生はいつもと違う雰囲気を漂わせそのメロディや和音はあまり耳にしことのないものでした。恐るおそる”なんという曲ですか”と尋ねたところ先生は”白秋の邪宗門を作曲しているが難しいなぁ”の一言。

そのときの不可思議で幻想的な音はその後も時折脳裏をよぎっていました。

4年前の3月ふと思い出してその後「邪宗門」はどうなりましたかと伺ったところ”まだできとらん”と言われたのですが、4月先生は病のため死線をさまよう経験をされました。

病身で間もなく傘寿を迎えられる先生のどこにこれほどのエネルギーと気力があるのかと驚嘆しました。 旋律・和音・曲想の展開に感動した私は凄い曲を書かれましたね、と申し上げますと”うん、なにか書き残しておきたいと思ったのでね”と言われました。ところがその年の11月突然「邪宗門」の巻頭を飾る第一詩篇「邪宗門秘曲」の楽譜が送られてきたのです。それは今までの日本歌曲にみられない壮大な構成力をもつものでした。

スケールの大きい幻想的な音の世界に魅せられた私はリサイタルプログラムの一つのステージを邪宗門の曲で組みたいと思い「謀叛」を含めあと三曲作って下さいとお願いしました。

その後入退院を繰り返す事になった先生に何という無理なことを言ってしまったのかと後悔しましたが、作品は次々と送られてきました。しかし先生は、歌う曲は君が選んで歌えばよい、僕の作品だからといって全て歌わなくてもよいのだよ、とおっしゃっていました。

先生ご自身も昨年末、どうしてもこれだけはといって作曲された「帰去来」を私の録音を聞いた後、書き直したいところがあると言われたのです。永遠の世界へ旅立つ際まで詩と音楽に対する自らの魂の至高なるものを求めていたのでしょう。(因みにこれが先生の絶筆となりましたが、帰去来の詩には先生の過去半生と重なるところがあることを、お手紙の中で知りました)

亡くなる半年前の頃、頭の中は音が一杯かけめぐるのに指が痛くて一小節書くのがやっとなんだよ、と言われながらも書き続けられたのは自らの生への証しと作曲家魂のなせるものだったに違いありません。

平成12年5月7日、81歳の生涯を閉じられましたが先生の魂は作品とともに私達の心にいつまでも残るものと信じています。

平成12年10月26日 江口保之先生追悼リサイタルの日に偲ぶ

山本健二