今、我々は七音音階で作曲し、演奏し、歌っているが、それは明治の唱歌より始まった。
この音階は伊沢修二がアメリカ留学から帰国し、文部省「音楽取調掛1」の「御用掛2」に就任した明治12年まで日本にはなかった。
それまでの日本音階はアバウトではあるがファとシのない五音音階であった。
伊沢は留学中、ファとシの音階が習得できず悪戦苦闘する。見かねたブリッジウォーター師範学校の校長は「唱歌を免除してやろう」と言った。
伊沢は選ばれてアメリカにまで来て、これが出来ないとはお国に対し面目ないと、三日間泣いたという。やがて、ルーサー・メーソンと出会い、これを体得した。帰国後メーソンを招聘、外国の歌でファとシの少ないスコットランド民謡などを導入し、日本人の音階感覚を馴らしていくのだった。
「音楽取調掛」創設の明治12年、奇しくも滝廉太郎が生まれた。廉太郎の「荒城の月」「箱根八里3」「花」は明治の唱歌の最高峰に輝くものだった。それは今日においても日本の歌を代表する名曲である。明治の唱歌はやがて「赤い鳥」など童謡運動の導火線となり、童謡・唱歌は日本人の情緒を育む大きな力となっていく。
ところが敗戦後、次々とこれらの歌が教材から排除され一時「荒城の月」までもがその対象となったこともあった。
岩波文庫に「日本唱歌集」がある。それを読みながら口ずさむと明治の唱歌60曲歌うことができた。その多くは教わったこともないのに不思議に旋律が浮かんできた。これはメロディーが時空を超えて、耳から記憶されている証なのだろう。
世界の人々の心のひずみが深まっていく今、これらのメロディーによって日本人の「思いやり」や「もののあわれ」を感ずる情緒が地球全体に広がることを願っている。
脚注: