大正2年、島村抱月の芸術座から音楽会の為の依頼を受け作詞をする。

白秋の詩で作曲された第一号である。

『この道』『からたちの花』その他、白秋の詩はどれもやさしい言葉で書かれているが、『城ヶ島の雨』には、”利休鼠の雨がふる””舟はゆくゆく通り矢のはなを”という一般には理解し難い言葉がある。

“利休鼠”とは利休色(緑色をおびた灰色)のねずみ色を帯びたもので敢えて言えば陰鬱な色ともいえる。

“通り矢”とは陸地とすぐ前の離れ岩との幅が狭く海の流れの早い所。(今は埋め立てられているがバス停の名前として残っている)
一説によると頼朝がここで通し矢をしたことが由来ともいう。

“はな”は鼻先のはなで目の前のこと。

このとき、白秋の人生において最も苦難に満ちた時代であった。

明治44年、詩集『思い出』で上田 敏より激賞され一躍明治詩壇の寵児となったが翌年隣家の夫より虐待を受けている人妻(俊子)への同情から不幸な恋愛事件となり姦通罪で告訴され市ヶ谷に未決監として6日、拘置される。

26歳にして詩壇の寵児となった白秋への妬みもあって世の指弾を浴びる。

死を決意して木更津に渡るが死にきれず、三浦三崎へと渡る。

一方、海産物問屋として栄え、また福岡県下十指に入る醸造元であった実家も川向うの船大工の工事場からの失火をうけ、これが原因で倒産し一家が白秋を頼って来たときであった。

“利休鼠”は死を思うほどの白秋の心の痛みの暗さ

“通り矢”は早くこの辛い時が過ぎ去ってほしいという願望、
“唄は船頭さんの心意気”はいつの日か必ず詩歌の道で立ち上がってみせるぞとの決意、
しかし、現実に目を向けると”日はうす曇る、帆がかすむ”
となって、このときの白秋のおかれた状況、心情がそのままこの詩となったのではないかと思われる。

雨はふるふる、城ヶ島の磯に、
利休鼠の雨がふる。
雨は真珠か、夜明けの霧か、
それともわたしの忍び泣き。
船はゆくゆく通り矢のはなを
濡れて帆上げたぬしの船
ええ、舟は櫓でやる、櫓は唄でやる、
唄は船頭さんの心意気。
雨はふるふる、日は薄曇る。
舟はゆくゆく、帆がかすむ。