山本健二による歌のコラム一覧です。
「この道」考
大正14年白秋は初めて北海道を旅します。そのとき作ったのが「この道」ですが北海道の道ではありません。それは「いつか」という昔のある時を意味する言葉を4回繰り返し「あゝそうだよ」と...
続きを読む「からたちの花」考
“からたちのそばで泣いたよ” 誰がなぜ泣いたのか。“みんなみんなやさしかったよ” みんなとは誰なのか。“からたちのとげはいたいよ 青い青い針のとげだよ” 春、芽生えたばかりの青い...
続きを読む「城ヶ島の雨」考
明治44年、白秋は26歳のとき第二詩集「思ひ出」を刊行します。上田敏が激賞し明治文豪10傑選の詩の部門で最高得点を獲得、一躍明治詩壇の寵児となります。ちょうどその時、隣家...
続きを読む「浅間の馬子」考
「浅間の馬子」というタイトルになっているが浅間の馬子のことではない。浅間山麓には古くから馬子唄として「小諸馬子唄」があるが、「浅間馬子唄」というのはない。星野温泉...
続きを読む「かなりや」考
神田の裕福な商家に育った八十は14歳のときに父親が亡くなり、早大英文科在学中、後を継いだ兄の放蕩と失踪で一家は没落。遺された家族を養うため、翻訳、株取引、揚げ句の果てに天...
続きを読む「赤とんぼ」考
露風5歳のとき、父母が別れ母かたは実家へ帰ります。幼い日々、露風は母の実家へ通じる紅葉谷で遊びながら母の帰りを待つのでした。18歳のとき再婚した母から巻紙で便りが...
続きを読む「月の沙漠」考
作詞の加藤まさをは立教大学在学中、療養のため千葉の御宿に滞在した。その時の海岸の砂丘からイメージを膨らませこの詩を書いた。作曲の佐々木すぐるは浜松より作曲家を志し上京、この詩にめ...
続きを読む「荒城の月」と司馬遼太郎先生
小西菊枝様を通じ、たくさんのテープ、ありがとうございました。端正で、清らか情趣のある御歌は、そのまま日本の明治やアメリカのニューイングランドのピューリタリズムを思い出させるもの...
続きを読む歌曲集『邪宗門』と江口保之先生
それは昭和24年の秋、私が福岡高校の2年生、51年前のことでした。ピアノを弾きながら五線紙に音符を書き込んでおられる先生はいつもと違う雰囲気を漂わせそのメロディや和音はあ...
続きを読む歌曲集『奥の細道』について
「奥の細道」――風雅の道と西行の五百回忌――“旅人と我が名呼ばれん初しぐれ”https://music.apple.com/jp/album/奥の細道/4213...
続きを読む歌曲集『西行歌遍路』について
白秋・芭蕉から西行への系譜https://music.apple.com/jp/album/西行歌遍路/421365246平成10年(1998)~11年(19...
続きを読む日本歌曲に思う
https://music.apple.com/jp/album/初恋/430145953私は今、言葉のもつ不思議さを感じています。詩を読み、詩の心を汲みとろうと繰返...
続きを読む言葉の情感を歌う
人の声は言葉がつけられる唯一の楽器です。今日、私たちが何気なく使っている言葉の一つ一つには長い歴史があり、日本人の心に伝えられてきた思いがこめられています。日本の言葉は日...
続きを読む唱歌「広瀬中佐」と「荒城の月」に明治人の心を偲ぶ
バリトン歌手 山本健二「正論」平成16年12月臨時増刊号に掲載杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや文部省唱歌「広瀬中佐」(大正元年小学唱歌)の一節である...
続きを読む「月光とピエロ」について
「月光とピエロ」はマリー・ローランサンへのかなわぬ恋のうた詩である。堀口大學の第1の詩集「月光とピエロ」に序した永井荷風は「君は何故におどけたるピエロの姿としめやかなる月...
続きを読むラトビア奮闘記
声楽家・合唱指揮者 山本健二「Latvija」日本ラトビア音楽協会ニュース第10号2008年1月発行に掲載ウィーン経由でリガ(ラトビア首都)へ行く。雲海をプロペラでかき分...
続きを読む歌で紡げ 正しい言葉
山本健二(NPO法人日本童謡の会常任理事)読売新聞 西部本社版 意見・視点(2008年9月17日)記載「チョッキン チョッキン チョッキンナ~」。この擬音語が来ると、3歳...
続きを読む男声合唱組曲「柳河風俗詩」について
白秋(26歳)刊行第2集「思ひ出」の末尾に、48の詩篇よりなる「柳河風俗詩」と題する章がある。この組曲は、その中より“柳河・紺屋のおろく・かきつばた・梅雨の晴れ間”が選ばれ構成さ...
続きを読む「故郷」の曲に思う
今年2014年は”兎追いしかの山”の「故郷」が大正3年6月の尋常小学唱歌(6)に発表されてから100年になる。私は1933年生まれの81歳、昭和20年敗戦の時、旧制の中学1年生だ...
続きを読む白秋を歌い続けて66年
県立福岡高校・音楽専任教師の江口保之先生はこよなく白秋を崇拝していました。白秋の初の詩集「邪宗門」に魅せられ、20代の後半より巻頭「邪宗門秘曲」の旋律の想をあたため、曲に書き上げ...
続きを読む日本の七音音階の音楽事始め – 唱歌のこと
今、我々は七音音階で作曲し、演奏し、歌っているが、それは明治の唱歌より始まった。この音階は伊沢修二がアメリカ留学から帰国し、文部省「音楽取調掛1」の「御用掛2」に就任した...
続きを読む童謡は美しく懐かしく 懐かしく美しい
唱歌は主に文部省が編纂し、教材として歌われたが、その根幹には徳育の考えがあった。これら国より与えられた唱歌に対し、鈴木三重吉は子供の純なる心を育むための童謡・童詩の創作を...
続きを読む城ヶ島の雨のこと
大正2年、島村抱月の芸術座から音楽会の為の依頼を受け作詞をする。白秋の詩で作曲された第一号である。『この道』『からたちの花』その他、白秋の詩はどれもやさしい言葉で...
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