唱歌は主に文部省が編纂し、教材として歌われたが、その根幹には徳育の考えがあった。
これら国より与えられた唱歌に対し、鈴木三重吉は子供の純なる心を育むための童謡・童詩の創作を提唱した。それが大正7年(1918年)7月に創刊された「赤い鳥」である。
当初、三重吉は児童文学としておりメロディーは考えていなかった。ところが、翌8年の5月号に作詞・西條八十、作曲・成田為三の「かなりや」が譜面として掲載されると、これが大きな反響を呼んだ。
以後、童詩は次々とメロディーがつけられ童謡となって大正ロマンの風の中で百花繚乱と咲きみだれ歌われていった。
岩波文庫に「日本童謡集」がある。大正7~15年の8年間のなかで50詩篇歌うことができた。昭和元年~20年では22詩篇にとどまった。
大正時代が終わりを告げて今年(2014年)は88年になるが、我々は誰にも教わることもなく大正時代の童謡を歌っている。種を蒔かずとも季節毎に花を咲かせる草花のように。
しかし、童謡も明治の唱歌という里山があってこそ生まれたもの。唱歌・童謡のメロディーは口承によってひろがり、脳裏に入ると、その多くは消え去らない。
幼いころ耳にした童謡の言葉とメロディーは、幾霜雪を重ねても美しくやさしく蘇る。
日本を代表する一流の詩人・作曲家が子供達のために詩を書き、曲とした童謡、これは日本の文化遺産である。
世界の人々の情操が薄れゆく今、日本の童謡・唱歌が地球のすみずみまで広がることを願っている。
2014年10月18日 記