「奥の細道」――風雅の道と西行の五百回忌――

“旅人と我が名呼ばれん初しぐれ”

「笈の小文」のはじめにある句で、芭蕉の人生に対する考えをあらわしています。「笈の小文」では,芭蕉は自分のこととしての想いにとどまっていますが、奥の細道では、月日は百代の過客にしてゆきかふ年も亦旅人なりとその想念は広がりをみせます。月日を無窮にすぎゆくものとしてとらえ、やがて後半においては,時代による表現や事象の変化はあっても風雅の根底にあるものは変わらないという不易流行の説を持つにいたります。

「奥の細道」は元禄二年の旧暦三月二十七日から九月六日までの二千四百キロに及ぶ当時としては想像を超えた奥羽長途の行脚でした。能因,西行,宗祇、の歌枕を尋ね風雅の世界を求めた旅といはれておりますが、この長大な道程を単に風雅の世界を求めただけというのでは素直に頷けません。芭蕉をこれほどの大旅行にかりたてた何かがあったはずです。

ところで、芭蕉が風雅の道を求める理想の人としていたのが西行でした。元禄二年は西行の五百回忌に当たる年です。

萩原井泉水は「奥の細道」のなかで「芭蕉が僧侶のきる法衣をつけて出た事は旅立つ時の心境がそうさせた」と書いてあります。

旅立ちでは「まぼろしのちまたに離別の涙を」流し、草加の宿では「若し生きて帰らば」といい、飯坂では「羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念。道路に死なん是天命也」といいます。

これほどの覚悟は思慕する西行の五百回忌の法要行としてとらえることで、はじめて理解できるのではないでしょうか。しかも旅立ちの千住へは船で渡り、結びの大垣ではまた船に乗って伊勢神宮の遷宮式(二十年ごとのよみがえりの儀式)へと向かいます。

それはまさに此岸より彼岸へ渡り法要行脚をして此岸へ戻るという象徴的意味のこもった行動だったと思うのです。

芭蕉にはこの旅を通して風雅の道を希求する一方、西行の足跡を尋ねながら五百回忌の法要行をしたいという思いがあり、芭蕉の詩魂はこれらが渾然一体となって「奥の細道」の文学へと昇華したのではないでしょうか。

山本健二