山本健二(NPO法人日本童謡の会常任理事)
読売新聞 西部本社版 意見・視点(2008年9月17日)記載
「チョッキン チョッキン チョッキンナ~」。この擬音語が来ると、3歳児までが指を鋏にして身を乗り出す。目はキラキラと輝き、園児はもうすっかり蟹だ。初めて聞くバリトンの声も珍しいらしい。 やや芝居がかった「床屋でござる……」に大笑いし、「親父自慢で……」には歓声が上がる。
私が指導している日本童謡の会のボランティアグループ約30人は月1回、童謡・唱歌を歌いに保育園を訪問する。久しぶりに同行した私は請われるまま飛び入りで「あわて床屋」(北原白秋作詩、山田耕筰作曲)を歌った。その言葉一つ一つに園児は素直に反応する。聞いて分かるように歌えばいいのだ。
この思いは60年前にさかのぼる。県立福岡高校1年の時、初の音楽専任教師として赴任された江口保之先生によって、私はボクシング部から男声合唱の音楽部へと移った。そこで初体験した別々な音の調和(ハーモニー)に心を奪われた。
その頃、合唱団は群雄割拠の観を呈し、他の合唱団の演奏や独唱を聞く機会も増えた。ところが日本語がよく聞き取れない。「さくら」が「さこら」に聞こえる。耳から分かる歌い方はないのか――それは自分で工夫するしかなかった。福高に続いて早大グリークラブの学生指揮者となった私は、自分で稽古し団員に歌って聞かせた。
「あわて床屋」で園児が歓声を上げたのは、歌う言葉によってストーリーが分かったからだ。園の若い先生方も「こんな楽しい童謡があったのですか」と驚く。園児の感性はみずみずしく理屈抜きに吸い取ってくれるのだ。幼児の時にこそ「肩たたき」(母さん お肩を たたきましょう)、「アメフリ」(キミキミ、コノカサ サシタマエ)なども覚えてもらいたい。
童謡・唱歌には優しさや慈しみを感じさせるものが多い。「故郷」の第一節は故郷の自然を、二節は人々を、三節は自らの精神性を歌っている。これによって日本人の心が培われていくのだ。
音とは不思議なもので、寺の鐘の音ではしゃぐ者はいない。シュタイナーは、芸術の分野で神の領域と交わることが出来るのは音楽だけかも知れない、という。<見えない>という共通点を持つからだ。
今、日本語の発音がおかしくなっているが、北原白秋の詩に「五十音」(平野淳一作曲)がある。詞[ことば]書に「音の本質を子供達に歌い乍[なが]らおぼえさしたい」とある。日本童謡の会のメンバーがこれを歌うと、園児たちは唇をしっかり動かし、「アイウエオ」「カキクケコ」とはっきり発音する。すこぶる明瞭である。楽譜を渡しておくと、「あめんぼ赤いな」から「わいわいわっしょい」まで2分47秒を暗譜で歌う。
私は「故郷」「肩たたき」「アメフリ」「五十音」を軸に童謡・唱歌を全国に広めたいと思っている。草の根運動ではあるが、やがて人々の心に日本民族としての優しさと思いやりが戻る日が来るだろう。人生砂時計の残量は少なくなってきたが、次の世代への思いは深くなる。