バリトン歌手 山本健二

「正論」平成16年12月臨時増刊号に掲載

杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや

文部省唱歌「広瀬中佐」(大正元年小学唱歌)の一節である。 “杉野は……”を見た瞬間、メロディーを思い浮べた方もいるだろう。

ところがメロディーは浮んでもあとの言葉が出てこない。 ラララで辿るのが大半ではないかと思う。旧制中学一年のとき、 終戦をむかえた私もそのなかの一人だ。

平成十六年、日露戦争百年にあたり「さくら」というアルバム名のCDをリリースした。 副題は「明治のメロディー祖霊への畏敬」とした。

製作の作業は頭をよぎるメロディーのなかから候補となる歌をいくつかメモっていくことから始まる。 「鳴呼玉杯に花うけて、緑酒に…」「紅萌ゆる丘の花、早緑…」「霰のごとくみだれくる、敵の弾丸…」 「ここはお国の何百里、離れて遠き満州の」「杉野はいずこ杉野はいずや」

広瀬中佐では歌いだしがでてこない。なさけないことだ。気をとり直して候補とした歌の楽譜をみる。 すると「ここはお国何百里」と歌っていたが、「ここはお国何百里」であることを知る。 「戦友」は詞(ことば)も旋律も悲しい。戦地で歌うことを禁じたという話もうなずかれる。 「お国の」はごく普通の表現だ。「お国を」としたことで次に出てくる「離れて遠き」と深くかかわり、 お国への思いが濃くなる。

歌いだしの出なかった「広瀬中佐」の歌詞を読む。写実的であるのに驚く。 子規の写実の影響は、このようなところにもあったと見るべきか。

広瀬中佐 文部省唱歌

広瀬中佐 歌詞

一、轟く砲音 飛来る弾丸 荒波洗うデッキの上に 闇を貫く中佐の叫び 「杉野は何処杉野は居ずや。」

二、船内隈なく 尋ぬる三度 呼べど答えず さがせど見えず 船は次第に 波間に沈み 敵弾いよいよ あたりに繁し

三、今はとボートに 移れる中佐 飛びくる弾丸に 忽ち失せて 旅順港外 恨みぞ深き 軍神広瀬と その名残れど

『坂の上の雲』(司馬遼太郎・文春文庫)にこの場面があった。 歌詞とオーバーラップするところを引用させて頂く。

広瀬は三度目の捜索に出た(尋ぬる三度)

杉野杉野とよばわってゆく(杉野は何処杉野は居ずや)

船底までさがしたらしい(船内隈なく)

広瀬はやむなく杉野をあきらめ全員ボートに移った(今はとポートに移れる中佐)

砲弾から小銃弾までがまわりに落下し海は煮えるようであった (轟く砲音飛来る弾丸敵弾いよいよあたりに繁し)

そのとき広瀬が消えた、巨砲の砲弾が飛びぬけたとき、 広瀬ごともって行ってしまったらしい(飛びくる弾丸に忽ち失せて)

レコーディングするときは、どんな曲でも五十回はくり返し練習する。 美空ひばりは新曲を発表するに当っては五百回歌いこむということを人づてに聞いたことがある。 天才と凡才は練習回数もひと桁違う。

しかし、くり返し歌っていると三十回目くらいから歌のもつ何かが感性のなかに少しずつひびいてくる。 言葉では説明しにくいものだ。ときどき思うのだが、音は見ることができない。 それに対して絵画、彫刻、文学は見ることができる。

ドイツの心霊学者シュタイナーが、 芸術の分野で神の領域と交りあうことができるのは音楽だけかもしれないと書いている。 それはこのことだろうか。神も音楽も、見えないという共通点をもつ。 寺院の鐘、声明(しょうみょう)、教会の音楽など音の世界で神仏を感じとるのは人類共通のものといえそうだ。

かつてニューヨークのセントパトリツクスカテドラルを訪れたとき、 見上げるような天井から降りそそがれるパイプオルガンの音に思わずひざまずきそうな衝動にかられたのを思い出す。

「広瀬中佐」をくり返し歌う。「轟く砲音」から始まる歌詞は、『坂の上の雲』の文章とあいまって臨場感にあふれる。情景がスライドの如く変化していく。やがて三節の飛びくる弾丸に忽ち失せてで闇となる。 軍神の言葉がむなしい。それはその名残れどの「ど」の音節にあるようだ。残れ「り」ではなく、残れどの「ど」に明治人の心の一端にふれる思いだ。

国の命運を賭した戦いであることを十分理解し、 国民一人ひとりがいさぎよく命をなげうつ気概をもっていたなかで、 残れどのどの音節は何を語ろうとしたのだろうか。

「ど」はDとOの二つの音素から成る。Dは子音のなかで最も重々しく、Oは母音のなかで最も重厚な深いひびきだ。 余計な音節をすべてそぎとり最終の音節を「ど」にした作詞者の思いは、 恐らく公と私のはざまのなかで公のため一身をなげうった人への鎮魂の祈りであったのだろう。

楽譜の上では指定されていないが、”軍神広瀬とその名残れど”をリピート(くり返し)していた。 気づけば、くり返して歌っていた。ピアニストも楽譜上リピート記号がないにもかかわらず、 私が歌うのを聞きながら自然にくり返したという。

「ど」という語感・音感には決意と、しかしながらという二律背反のひびきがある。 広瀬中佐を歌いながらも、国を守るのだと沈んでいった多くの無名なる海兵一人ひとりへの哀悼の思いが広がる。

広瀬武夫と滝廉太郎

実は「広瀬中佐」の歌は四年前の明治四十一年に中等唱歌としてすでにあった。

広瀬中佐 作詞者・作曲者未詳

一、旅順の港頭狂風號び驚潤高し 地の利を頼みて強敵守る 砲弾縦横電光閃々 鬼神も怖ずる真唯中を 正気は誠の一字にありと 懐慨義に就くこれこそ軍神、広瀬中佐

(二、同様の文体につき略する)

読みくらべ、歌いくらべると”杉野は何処”にひかれる。 今に残る歌には杉野兵曹長の救出に殉じた広瀬武夫の人間愛があり、それが歌う人、 聞く人の心に伝わってくるからだろう。

広瀬武夫は明治元年、豊後竹田の生れである。 竹田市は大分から熊本にむかう豊肥本線で約一時間のところにある。 そこには岡城址があり、登れば南に阿蘇の山々、北には九重の山並を望むことができる。

またこの地は、日本歌曲の第一号といわれる「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎が少年時代を過したところでもある。 東京生れの廉太郎は、豊後日出藩出身の父吉弘が大分県直入郡の郡長を命ぜられたとき、 竹田の郡長官舎に移り住んだ。この官舎の道をへだてた小高い岡の上に広瀬武夫の家があった。 廉太郎の両親は武夫の話をよく聞かせたという。

武夫と廉太郎はのちにドイツのライプチヒで一度会っている。明治三十四年、 ライプチヒ音楽学校に合格した廉太郎を、当時ペテルブルクの大使館付武官だった武夫が同郷のよしみで訪ねたのだった。お互いの家が近かったことからふるさと竹田を懐しく語ったことだろう。

そのとき、こんな歌を作曲しましたといって渡された楽譜が「荒城の月」であった。 武夫がそれをペテルブルクにもち帰りロシア人に見せたところ、 これは本当に日本人が作曲したのかと感心されたそうだ。

多感な中学時代を竹田で過した廉太郎は岡城址でよく遊び、「荒城の月」は岡城址をイメージして作曲したという。武夫は荒城の文字に生れ育ち、 遊んだ岡城址に思いをはせたことだろう。

その岡城址へ登る手前、右側の小高い斜面に広瀬神社がある。

平成十六年五月二十七日、そこで広瀬武夫の百年忌祭と戦没者合同慰霊祭が行われた。 それに参列するため前日の二十六日に竹田を訪れた。その日、私は久しぶりに岡城址に登った。

岡城址は切り立った阿蘇溶岩台地の上にある。 台地の絶壁に大きな岩石がはりつくように積まれている。巨大な土木建造物である。

城という字は土扁(へん)に旁(つくり)を成ると書くが、なるほどこのことかと思う。 平地に建つ壮大にして華麗なる城は多いが、大自然の土と溶岩と岩石が一体となった城は他に例をみない。

台地は谷底から屹立し、切り立った絶壁には岩石が垂直に積みあげられている。 眼下、稲葉川と白滝川が城を守る。のぞくと吸い込まれそうである。 恐らく下から見れば、天へ続く巨石のつながりとも見えるだろう。 難攻不落の城であったというのもうなずける。

この城の歴史は長い。

岡城は今より約八百年前、鎌倉時代のはじめ緒方三郎惟栄(これよし)が築城したと伝えられている。 築城は頼朝の追討をうけた義経を迎えるためであったという。

話はとぶが、終戦時の陸相阿南惟幾(あなみこれちか)も竹田の出身である。惟幾は本土決戦を主張していたが、 一旦ボツダム宣言を受諾した後は抗戦派の慰撫に努めた。終戦時の大臣のなかで、 唯一人八月十五日に自決した人である。ご子息で新日本製鉄顧問の阿南氏もお名前は惟正である。 惟は心をめぐらす、よく考えるの意がある。惟の字に豊後竹田八百年の歴史を思う。

惟栄のあと、南北朝時代に豊後守護大友氏の分家であった志賀氏がここに入る。 親次(ちかつぐ)の代に九州制覇を目指す薩摩・島津軍の侵攻を受ける。 豊後の南郡衆が次々と降伏していくなかにあって、親次は無勢ではあったが、 岡城に拠ってこれを退け名を上げた。城を囲む深い谷は100メートルにおよび、 もっとも深いところは220メートルもある。谷底より登れば、崖はやがて石垣となる。 親次の奮闘もさることながら、天険の要害が撃退したともいえる。

秀吉のとき中川秀成が入封し、明治四年の廃藩置県まで続く。 その間、本丸、二の丸、三の丸、大手門がつぎつぎと構築され、近世城郭史上特異な城となる。 大手門から家老屋敷、城代屋敷、大鼓櫓などの跡をすぎて三の丸へとゆく。 平日の午後、すれ違う人もいない。平泉と雰囲気は違うが、やはり兵(つはもの)どもが夢のあとである。 築城以来、どれほどの武士がここを行き交ったことか。

廃藩置県への鎮魂歌

二の丸に来る。そこに瀧廉太郎の像がある。大分県出身の彫刻家朝倉文夫の作である。 二の丸は数寄屋(すきや)・月見櫓などがあったところ、いかにもこの像がふさわしい。

本丸へ登る、小さな神社がある。五十四年前、この本丸跡で私は初めて人の前で独唱した。 それは第三回西日本高校独唱コンクールだった。このコンクールは、 今も全国の高校生独唱コンクールとして続いている。

夏休みの前、福岡高校音楽専任の江口保之先生から「阿蘇に運れていってあげよう。費用はいらない。 その代り行った先で一曲歌えばよい」という。小中高と一度も修学旅行のない世代の私は、 修学旅行の代りのようなものだという先生の言葉にとびついた。

生来、運動好きの私は終戦まで剣道部、禁止によりラグビー部へ、更にボクシング部へ移り汗を流していた。 高一の音楽の時間、江口先生は私の歌唱をえらく褒めて音楽部へ誘った。 岡城址本丸跡の仮設ステージの上で歌う私の姿は、先生の褒め言葉に起因するものだった。 先生との出会いは、好運としかいいようがない。そのことがライフワークとなって今日へと続いている。 文字通り仰げば尊しわが師の恩である。

そのとき歌ったのはトスティのセレナータだった。 「荒城の月」も練習したが、どうしても歌えなかった。 いや歌えないことはなかったが、四節すべて心をこめて歌うことができなかった。

荒城の月 土井晩翠 作詞 瀧廉太郎 作曲

一、春高楼の花の宴 巡る盃かげさして 千代の松が枝わけ出でし 昔の光いまいずこ

二、秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うる剣に照りそいし 昔の光いまいずこ

三、いま荒城の夜半の月 替らぬ光誰がためぞ 垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐

四、天上影は替らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなお 鳴呼荒城の夜半の月

平成元年の秋、『明治という国家』(司馬遼太郎・日本放送出版協会)のグラビアにあった岡城址を見て驚いた。 読むと、「荒城の月」は廃藩置県への鎮魂歌ではないかと書かれてあった。長い間、四節集中して歌いきることができなかった私は、 封建社会の幕藩体制から近代国家としての日本が生れ変ろうとする節目(廃藩置県)のときに礎となった人々への鎮魂の歌として歌った。四節最後まで集中して歌うことができた。この歌に魂が入ったと感じた。

瀧廉太郎の旋律は岡城址の如く磐石たる風格をもち、土井晩翠の詞は壮大にして森羅万象を表現する。

第一節、春高楼と目線は高く、千年にもなろうかという松の枝は、動くが故に昔の光は枝を分けてさしこむ。

第二節、秋陣営の霜の色と遠く地平はひろがる。 植うる剣は「陸奥話記」に漢文で収められている隍底倒立刃という言葉からの引用で、 柄を土にさし込み隍底倒(逆さま)に刃を立てて敵を防ぐという意味をもつ。剣は動かないが故に、昔の光は剣に添うが如く照る。

第三節、これこそ鎮魂の節なのだ。替らぬ光誰がためぞと、礎となった一人ひとりに光をあてている。歌唱はこの節で祈りとなる。

第四節、天上影は--大きな自然。栄枯は移る--悠久の歴史、今もそれを写しているのか、荒城の夜半の月よ。歌うたびに味わいは深くなる。

命は誰のためにあるのか

岡城址よりの帰路、広瀬神社に立ち寄り参拝する。広瀬武夫の他千六百有余の御霊が祭られている。いかなる戦の場で斃れられたのか、いずれにせよ国(日本民族)のために命をなげうった方々である。

生れた時代によっては、私も異国において、野ざらしとなり、わだつみの声となっていただろう。そのことを思うと、私の命はこの御社に祭られている命のお蔭である。感謝と鎮魂の祈りを深くする。

広瀬神社には広瀬記念館がある。一階に柱のみの空間がある。そこに旅順閉塞作戦で沈む船(広瀬の場合は福井丸)から退避する際に使われたボートと同じ型のものが置かれてある。

右舷最後部に広瀬はすわり、「みなおれの顔をみておれ、見ながら漕ぐんだ」と隊員をはげましていたのか、とボートを撫でながら想像する。突然、一片の肉片と血染めの海図を残して消えたのだ。むざんやなである。

命とは何か、命は誰のためにあるのか考えてしまう。

広瀬にあっては、それは「七生報国」(七たび生れて国に奉ぜん)であったと関係各書は語る。 その一つ、『ロシヤにおける広瀬武夫』(島田謹二・朝日選書)のなかで次のような記述がある。

彼女は熱にうかされたように体がほてっていた。その人(広瀬)のただ一筋の祖国愛にうたれたのである。それは一つの国民の魂を信じて、それに帰依している男の信念だった。 これがこの人のたった一つの尊い目的になっている。その祖国愛から一切のものが出てきて、一切のものが帰っていく。その祖国愛からこの人は内面の統一をみつけたのだ。

我々が祖国愛という言葉を失って久しい。公の為にという言葉も色褪せている。『坂の上の雲』で西郷従道は利口ではないが、聡明であったという。聡明という字は、公の心に耳をかたむけ明らかにしていく。利口は口を利く。東郷平八郎は頭脳ではなく、心で統率したとも書かれている。表現は異るが共通するものをもつ。今、我々は頭脳で利害得失のみを計り、口を利いてかけ廻る民族になりはててしまっていないだろうか。

広瀬は、同性異性を間わず好感をもたれていたらしい。ペテルブルクではヴィルキッキーという若い海軍士官から「タケニイサン」といって慕われ、二人のロシアの令嬢からも好意をもたれた。武夫の兄嫁が冗談めかして、西洋人のアミーがいるかいないかさぐりを入れた手紙には次のような返事を書いている。

「仮二武夫ガ縁アリテ碧眼金髪ノ児ヲゴ紹介申ス期有之候ヘバ御義絶ナドト御憤慨被遊間敷ヤ」

恋の相手としては、アリアズナの名が知られている。武夫戦死の報に彼女は喪に服した。

五月二十七日午前十時より広瀬神社で慰霊祭がとり行われた。神主のオ~~の降神の儀の音声は、神社を囲む木々の緑へすい込まれる。神殿に向って左側に海上自衛隊呉音楽隊が並ぶ。真白い制服がまぶしいほどにすがすがしい。儀仗隊が音楽隊の後方より進み出て、正面に向い十名横一列に整列する。弔銃が鳴る。毎発射後、直ちに早いテンポで音楽隊が”命をすてて”を奏する。

弔銃は空砲ではあるが、それでものけぞるほどの衝撃音である。「命をすてて」は儀礼曲十曲のうちの一つで、「儀礼曲の統一に関する通達」のなかに“命をすてて”葬送式における儀仗隊の敬礼及び弔銃の場合(弔銃のときは譜の八小節を速度早く、毎発射後直ちに奏する)とある。当然、「君が代」「軍艦行進曲」も十曲の中に含まれている。

慰霊祭終了後、音楽隊の演奏を聞く。「軍艦行進曲」、「海ゆかば」など五十分に及ぶ演奏に魅了される。今ここで奏されている音楽は彼岸にある魂にとどいていることだろう。百年前の魂と共鳴していることだろう。ステージ上の若き音楽隊員の大先輩達は日本海海戦時、どのように存在し活躍したのか、と考えるが、そのあたりの知識は全く乏しい。

自然を畏敬した明治人

帰京後、『行進曲「軍艦」百年の航跡』(大村書店)の著者で第十一代海上自衛隊東京音楽隊長の谷村政次郎氏にお会いし、いろいろ教えて頂いた。谷村さんは今、日本スーザ協会の会長をされている。以下は谷村さんの著書と資料とお話をもとにしている。

日露戦争開戦時、軍楽隊が配置されたのは第一艦隊(旗艦「三笠」)、第二艦隊(旗艦「出雲」)、第三艦隊(旗艦「厳島」のち「日進」)の三艦隊である。軍楽隊の編成は軍楽長(または軍楽師)一名を以て隊長とし、軍楽手十七名、軍楽生九名、計二十七名と定められていた。

「三笠」における軍楽隊員の配置は次のとおりであった。

一、前後部各主砲十二吋砲塔の伝令一名宛
二、信号助手として艦橋上にあるもの四~五名
三、上、中甲板に於ける負傷者運搬手約二十名
四、無線電信助手六名(兼務)

これでわかるように、海戦が始まると軍楽隊員の主な仕事は負傷者の運搬であった。

「三笠」軍医長が書いたものと思われる「日本海海戦二於ケル負傷者救治ノ状況」のなかで軍楽隊員に関し、次のような記述がある。

「軍楽隊員ハ本年一月乗艦シテ爾来傷者運搬装創法を教育シ漸ク熟練セシモ、海戦の経験ナキニ因リ実戦二際シ狼狽の虞アランコトヲ疑念セシカ、意外ニモ斯ル杷憂ヲ認メサリシノミナラス、敏捷勇敢二動作シテ装創ヲ完フシ、遺憾ナク職務ヲ尽シ尚ホ戦後傷者ヲ送院スルマテ寝食ヲ忘レ熱心看護ノ労ヲ執リシハ 小官最モ満足ヲ表スル処ナリ」

セクショナリズムなどどこにもない。個は全のため、 全は個のためにという隊員の気概に一点のくもりもない働きぶりだ。

ところで軍楽隊はいつ本来の目的業務である演奏をしたのか、記録はほとんど見あたらないという。

「君が代」は朝八時と日没時、軍艦旗の掲揚、降下とともに演奏されるものであるが、それは港湾にて停泊中に隈られており、航海中は揚げたままで降すことはない。従って航海中に「君が代」が演奏されることはない。

日本海海戦時の演奏の記録としては「三笠」乗り組みの三等軍楽手河合太郎 が「日露戦争の回顧」のなかで次のように記述しているのがある。

「決死隊の出発とか重要任務を帯びて退艦する場合とかに演奏する位でそのときの曲は初めロングサイン(アラウド・ラング・サイン=蛍の光)で見送ったが、どうも我々にはピンと来ない。何んだか日本軍楽には女々しいと云うので『軍艦』行進曲に変更したが、何んと此れは又勇ましい限りで勇気百倍したものだ」

この「軍艦」行進曲は瀬戸口藤吉の作曲である。瀬戸口は海戦当時横須賀海兵団に勤務していたが、日本海海戦で運合艦隊が大勝利をおさめた直後の六月十四日に第一艦隊軍楽隊長として「三笠」に乗り組んだ。「軍艦行進曲」の作詞は鳥山啓(ひらく)である。鳥山は紀州藩出身の博学の士で、南方熊楠が唯一人師と仰いだ人物である。実は同じ詞に山田源一郎が作曲したものがあった。それをあらたに作曲してみないかと瀬戸口に勧めたのが、海軍軍楽隊の大先輩で「美しき天然」の作曲者として有名な田中穂積だった。 瀬戸口の才能を見ぬいた上のことであったのだろう。

かくして明治の海軍は勇壮關達なる「軍艦行進曲」と抒情漂う「美しき天然」という名曲をもつこととなった。武勇とやさしさをそれぞれ象徴する名曲である。いずれも歌詞と音楽の一体感がずばぬけている。「美しき天然」は自然と神を畏れ敬う心が旋律と共に深まる。

明治人の自然を畏敬する心は、堅牢なる鉄の塊ともいうべき軍艦にも和歌に出てくるような名前をつける。「春日」、「三笠」、「敷島」、「朝日」、「富士」、「浅間」、「八雲」、「千早」、「高千穂」、「音羽」、「松島」、「橋立」、「厳島」、これらはすべて目本海海戦の軍艦である。明治人の心のありようが偲ばれる。

一方、バルチック艦隊最新最大の戦艦名は「アリョール(鷲)」、そして「ニコライ一世」、 「アレクサンドル三世」である。

この対比は当時の歌の世界にもある。「故郷の空」、”夕空晴れて”と歌い出すあの歌だ。この歌はもともとスコットランド民謡で英語の原詩を直訳すると、”誰かが誰かと麦畑でこっそりキッスしたいいじゃないか”となる。それが日本に来ると夕空晴れて秋風吹き、月影落ちて鈴虫鳴く、となる。日本はやはり花鳥風月の国である。「ニコライ一世」「アレクサンドル三世」と「三笠」「春日」の違いである。

今でこそ我々は自然にドレミの七音階をたどることができるが、日本に洋楽を導入した伊沢修二はそのことで大変苦労した。明治八年、文部省からの留学生としてマサチューセッツ州立ブリッジウォーター師範学校に入学するが、七音階の音程がとれない。伊沢の悪戦苦闘ぶりをみかねた校長は、歌曲の考査を免除してやろう、といった。伊沢は選ばれて留学したからには、全てを学ばねばお国に対して面目が立たぬ。そんなことでは国へは帰れぬとくやし涙を流すのだった。

お国に対して面目が立たぬ、明治人はいかにもうぶで健気である。

ルーサー・メーソンという音楽教育家に出会い、七音階を習得して帰国する。帰国後、文部省音楽取調掛の御用掛に就任する。この時から目本の音楽教育が始った。それから二十年、明治人の習得能カと応用カは、目本の風土にあった独自の歌を生んでいく。唱歌・童謡である。なじみの詩人・作曲家の日本海海戦時における年齢は、主なところ次のとおりである。

高野辰之二十九歳、岡野貞一二十七歳(「ふるさと」、「騰月夜」、「春の小川」、「紅葉」)

北原白秋二十歳、山田耕筰十九歳(「この道」、「からたちの花」、「砂山」)

野口雨情二十三歳、中山晋平十八歳(「しゃぼん玉」、「証城寺の狸灘子」、「波浮の港」)

童謡、唱歌には自然の美しさ、四季のうつりかわり、そこに住む人々の心を歌ったものが多い。 私はこれらの歌を多くの人と共に歌いたいと、ホームページリサイタルをひらいている。これらの歌は日本人の心の財産である。

ところで平成十七年は戦後六十年である。毎年十一月、銀座ヤマハホールでリサイタルをしているが、十七年のプログラムに鎮魂歌のステージを組む予定だ。木原孝一作詩による”一本の杭、此処に海兵か陸兵かただ神のみの知る無名兵士が眠る”から始まるレクイエム「無名兵士」という合唱曲がある。独唱曲にならないか試みたが、やはり無理である。そこでその代りとして「海ゆかば」を歌うことを決めている。

それは広瀬神社の慰霊祭のとき決めたのだ。“みづくかばね””くさむすかばね”となった無名兵士達へのレクイエムとして。

「正論」平成16年12月臨時増刊号に掲載